トシトトシノアイダニ

遅ればせながら、あけましておめでとうございます。年末年始はチャイナ・ミエヴィルの『都市と都市』を堪能しました。

物語の舞台となるのは、ヨーロッパに位置すると思しきベジェルとウル・コーマという二つの架空都市。この両都市は隣り合いながらも厳格に分断されているという設定らしく、最初、僕は旧ベルリンをイメージしながら読んでいたのですが、どうも様子がおかしい。。。じつは、この二つの都市は「壁」や「河川」といった物理的な障壁で隔てられているわけではなく、そこに生活している人たち(ベジェル人とウル・コーマ人)の「所作」によって分断されているということが、読み進めていくうちに少しずつ判明していきます。その「所作」を代表するのが「見ない(unsee)」と「聞かない(unhear)」という行為(というより不行為?)。日本語で表記するとわかりづらいですが、つまり「見ることをしない(don't see)」のではなく「見ないことをする(unsee)」という特殊な「所作」がベジェルとウル・コーマを分断しているわけです。

さらに読み進めていくと、この二つの都市は隣り合っているどころか、じつは空間的に一部が重なり合っていることがわかってきます。空間的にはひとつの街路がベジェルとウル・コーマで別々の名前で呼ばれていたりするんです。もちろん、そこには日常的にベジェル人とウル・コーマ人が行き交っているわけですが、彼らは「見ざる」「言わざる」「聞かざる」を「する」ことで、あたかもお互いがそこにいないかのように振舞っている。そして、そのルールを犯した者は<ブリーチ>という超法規的な謎の存在によってどこかへ連れ去られてしまうっていうんですから、これじゃ、まるで子どものやる「ごっこ遊び」じゃないですかw

そんな不条理な世界で若い女性の他殺死体が発見され、それを追う刑事がいつしか二つの都市の間に「あるはずのない」隙間に踏み入っていくというのが物語のあらすじです。すごく寓意的な設定でありながら、同時に「グーグル」とか「スターバックス」とか妙に現実的な小道具が顔を出してくるとこが絶妙でしたね。そういう小道具が出てくるたびに、物語内の架空の都市が自分の生活している現実の都市に接続される(あるいは<クロスハッチ>してくる?)ような不思議な感覚に襲われる。きわめつけは次の一文。

(以下『都市と都市』より引用)「この都市(ウル・コーマ)の夜は、ベジェルよりも活気がある。これまでは見えなかったが、今は闇にまぎれて活動する人々の姿が見えるのだ。ホームレスたちが道端に寝転がっていた。ベジェルの人々が<見ない>道のあちこちにある“障害物”としてよけて通る、ウル・コーマの路上生活者だ。」

この一文を読んだとき、それまで「ごっこ遊び」だと思っていた登場人物たちの奇妙な「所作」が、とつぜんリアリティをもって迫ってきました。

じつは僕自身、町を歩きながら、ホームレスや障害者やヤクザといった自分とは異質な(と無意識に分類している)人たちを「(見ながらにして)見ない」ようにしているんですよね。それは、もちろん「見ない」ことで「いない」ことにしてしまおうというような意図ばかりではなく、「ジロジロ見たら失礼」といった文化的な由来も多分にあるかと思うのです。でも、そこで行なっている「(見ながらにして)見ない」という(ある意味)高度な「所作」は、まさに"unsee"に通じるものなんじゃないか。言い方をかえれば、僕たちの生活する現実の都市空間も、じつはかなりの部分が、そこに生活する人たちの意識/無意識的な「所作」によって構成/隔離されているんじゃないかあ、なんて妄想がもわもわっとわき出してきて。。。

最初に「物語の舞台」なんて書きましたけど、むしろ二つの都市こそが「物語の主人公」なのかもしれませんね。登場人物たちは「都市」を描くための狂言回しにすぎない。いやあ、面白かった。今年はちょっと「都市」をテーマに本を漁ってみようかな、そんなふうに思わせる、まさに「年と年のあいだに」読むのに相応しい一冊でした。


都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)

都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)