La Ville Lumiere

前回、『夢の消費革命』と『ウィンドウ・ショッピング』を読んで、一九世紀のパリにおける大衆の「視線」の変化と、その変化が都市空間を再編成していく過程を目撃しました。いや、この過程は「視線が空間を再編成していく」という一方向的なものではなく、それと並行して「空間の再編成が大衆の視線をも変化させていく」ような、相互作用的でダイナミックなものだったというほうが正確でしょう。その結果誕生した「近代都市」とは、つまり、それ以前の中世都市とくらべて「光」が浸透した都市、あるいは「光」あふれる都市なんて言い換えることができるのかもしれません。


この「光の都(=近代都市パリ)」の成立において、重要な役割を果たしたキャストのひとつが「ガラス」です。というわけで、お次は、フランスを代表する世界的ガラス・メーカーであるサンゴバン社の歴史を紐解いた、その名もずばり『サンゴバン』を手にとってみました。そもそもルイ14世の勅許によって、ヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」の鏡を製作するために設立された王立ガラス製造所を起源とするサンゴバン社。さまざまな経営的・技術的な課題を乗り越え、やがて巨大複合企業(コングロマリット)へ成長していくまでの400年にわたる変遷は、一企業の社史の範疇をはるかに超え、まさにガラスの文化史そのもの。なかでも「吹きガラス」から「板ガラス」への技術革新と、「装飾品」から「建材」への経営方針の転換といったくだりは、『夢の消費革命』や『ウィンドウ・ショッピング』との関連も深く、ガラスという素材が「都市」をどのように再編成していったかを雄弁に物語っています。

(以下『サンゴバン』より引用)「一九世紀の都市型住居は今から見ると旧態依然としたものに映るに違いないが、当時の快適な新しい集合住宅の内部には、狭さを感じさせないために鏡がもちいられた。その際、設置される鏡のサイズが大きくなるにつれて、室内の暖炉のサイズは反比例して小さくなっていった(フランスの室内鏡は通常装飾的に暖炉の上部の壁にとりつけられるため)。そして街中でガラスが歩行者に向けて用いられるようになった。実際、小さなガラス窓にかわって、大きな一枚の板ガラスをはめこんだショーウィンドーが見られるようになってきたのが、一八五〇年から一八六〇年頃のことである。また、少しずつではあるが、高級住宅を中心に、窓に鏡(ガラスの間違い?)を用いることが多くなる。鏡が用いられる機会が倍増し、大衆化していくと見込んだサンゴバンの思惑は見事にあたったわけである。」

この一文からも、ガラスの「大型化」と「建材化」が都市に光を導きいれる様子がありありと伝わってきます。

しかし、こうして建材として用いられるようになってみると、今度はガラスの強度不足が深刻な問題になってきます。その問題を克服するために、今度は「強化」という方向性で技術革新が進んでいくわけですが、そのひとつの解答として開発されたガラス・ブリック(ガラスの煉瓦)。そのガラス・ブリックの使用された初期の代表的建築として、クレディ・リヨネ銀行のパリ本店が紹介されていたのがなかなか興味深いですね。この銀行、たしかデヴィッド・ハーヴェイの『パリ モダニティの首都』でも取り上げられていたんです。オスマンのパリ大改造にあたって資金を調達した新しいタイプの金融機関の一つとして。そう考えると、クレディ・リヨネ銀行パリ本店というのは、一九世紀後半にパリに爆発的に流入してきた「資本」と「光」がそのまま物質化したような象徴的な建築といえるんじゃないでしょうか。機会があれば、ぜひ見てみたいなあ。


サンゴバン社のガラス技術の革新がパリに大量の「光」を導きいれたことは、この本を読んでよくわかりました。でも、ガラスは昼の光を屋内に流し込むことはできても夜の闇には対抗できないんじゃないか、という疑問がわいてきます。そうです、パリを光の都とするにはもうひとつ重要なキャスト、「照明」の技術革新を忘れるわけにはいかないのです。というわけで、一九世紀の照明の発展を追いかけた『闇をひらく光』を手にとってみることに。『サンゴバン』がどちらかというと技術と経営の歴史に寄っていたのに対して、本書は社会やメンタリティの変化にスポットを当てています。

(以下『闇をひらく光』より引用)「光の都---ヴィル・リュミエール---この俗名が生まれたのは、一つに、パリが一八世紀に啓蒙主義の中心地であったからであり、そしてもう一つ、一九世紀が力をそそいだ光あふれる歓楽街の存在がパリにあったからである。さらに詳しく考察してみると、この光の都が人工照明の活発な中心地でもあって、そこから再三にわたって、自然科学や工業技術や心理学を推進する重要な原動力が生まれていたことがわかる。そうしてみると、哲学における啓蒙主義と実際上の照明とのあいだに、一つの関連があると考えられないだろうか。たとえば、啓蒙主義を求める哲学的欲求が、光に対する現実的関心を呼び覚ました、とでもいった具合に。」

物理的な意味での「闇をひらく」と、哲学的な意味での「蒙を啓く」がかかっているとは。この視点、なかなか面白い。『ウィンドウ・ショッピング』において、建材としての「ガラス」の技術革新が百貨店などの商業的な装置を発明したのと同時に、一望監視的な監獄という対照的な装置を発明したと指摘されていましたが、本書では「照明」の技術革新がやはり、同様の対照的な反応を生み出したと指摘しています。

(以下『闇をひらく光』より引用)「「光るものはすべて、見つめている」---この知覚心理学的、神話学的公理から出発して、バシュラールは、人間がランプの光を用いて行なう監視、反監視、相互監視、という一連の過程を描きだしている。暗闇のなかにいて、はるかかなたに光を見る者は、監視されていると感じる。なぜなら、「遠くで光るその光るランプは『自足して』いない。それは外部に向かって働きかける。それは絶え間なく目覚めつづけ、監視するまでにいたる」からである。そのように見張られていると感じる者は、鋒先を転じようとする、というか、むしろ光の関係を転じようとする。彼は自分のランプを消す。無防備に他者の視線にさらされるのを防ぎ、逆に自分の方から---もはや見られたり監視されたりすることなく---相手を見つめ監視するためである。//あかりを所有する両者のあいだに展開される「内に秘めた敵意の心理学」(バシュラール)は、あかりのもつ二重の機能、つまり相手を見張る道具でもあり、また自分自身を見張らせる目印でもあるという機能に由来している。」

光の浸透とはつまり「視線」の浸透であり、その視線にさらされたとき、人びとは居心地の悪さや、ときには敵意さえも抱くという。これは、そのまんま百貨店と監獄のポジ/ネガの関係に通じますよね。もうちょっと引用・・・

(以下『闇をひらく光』より引用)「その光は、一九世紀的な意味における、刺激の強い、脅威を感じさせる光でもなければ、親しみやすく快適な光でもなく、産業化以前の人工照明がそうだったように、単一の「自然な」光だった。これを簡潔に単一光と呼ぶことにするが、この単一光は、その後しだいに屋外の光と屋内の光という互いに相容れない二種類の光に分裂する。この分裂は、さらに広い範囲で、市民生活が徐々に公的領域と私的領域とに分離していった社会的なプロセスを反映するもので、これは、一八世紀に端を発し、一九世紀の産業革命とともに頂点に達した。あらゆる個人的領域、なかでもとくに家庭は、不安におののきながら、ますます居心地の悪さを感じさせる公的な領域から離れていったが、そのことは、人々が街路の光を直接室内に入れないように努力してきた点に、はっきりあらわれている。//光を「控えめな適用量」に分けることに失敗すれば、光は、不快な侵入者に、つまり人々がこれほど慎重にフィルターをかけて取り除こうとしている外界からの闖入者に変身する。」

ここから読み取れるのは、光あふれる都市に対して、そこに暮らす人たちがある種の「居心地の悪さ」も感じていたということではないでしょうか。いっそ光(ホップ)、視線(ステップ)、公権力(ジャンプ)という三段論法が導けだせそうです。そう考えると、一九世紀のパリで頻発した市民革命の際に、街灯破壊と敷石をはがして作ったバリケードが市民側の主要戦略だったという指摘もうなずけます(その一方で、先日読んだ『民衆騒乱の歴史人類学』によれば、同じ市民革命で街灯や松明といった照明器具が、革命を煽るためのいわば「祝祭照明」として流用されていたという指摘もあったりするわけで、やはりここにも、照明に対する市民の分裂した反応が垣間見えてくるのですが)。


今回、『サンゴバン』と『闇をひらく光』を読み継いでみえてきたのは、「ガラス」と「照明」の普及というのは技術の進化であると同時に新しい権力の浸透でもあり、都市の「クリアランス」という一面があったのではないかということです。そうなると今度は、その過程で一掃されていった都市の「影」や「暗闇」がどこへ行ってしまったのかということが気になってくるわけで。。。そのヒントが隠れているのではないかという期待を込めて、次は『オペラ座の怪人』に進みたいと思います。


サンゴバン ガラス・テクノロジーが支えた建築のイノベーション (注目すべきフランス企業)

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闇をひらく光 〈新装版〉: 19世紀における照明の歴史

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