オペラ座の怪人は凄いらしい。

光の都から一掃された「闇」を求めて、ながらく本棚の最下層に埋没していた『オペラ座の怪人』を掘り出してみたわけですが、ちょっと、これが凄いんですわよ。何が凄いって、その奥付。1988年5月13日だってさ。なんと、24年間も暗闇に閉じこめていたらしい・・・我ながら驚きです。いや、ぼく以上に驚いたのは、きっと『オペラ座の怪人』ですよね。え、いまさら読む気かよ!?って。でも、その黴臭い1ページ目をめくった瞬間わかりました。この本は、このタイミングで読まれるべき本だったんだ、と。だって『サンゴバン』と『闇をひらく光』の導いた強烈な「光」が、いままさに『オペラ座の怪人』に最初で最後の華々しいスポットを当てていたんですもの!


(以下『サンゴバン』より引用)「ルイ一四世時代のヴェルサイユと並んで、鏡メーカーとしてのサンゴバンの名声を高めた建築というと、パリ・オペラ座であろう。一九世紀を代表する傑作であり、当時、世界でもっとも華麗で格調ある建築と評され、世界中に圧倒的な影響を与えた建築である。ナポレオン三世時代のセーヌ県知事オースマン男爵によるパリ大改造の目玉として建築され、ルーヴル宮殿から北に向かって伸びるオペラ大通りの突当りにアイストップとして構えている。//ガルニエのデザインは色とりどりの要素を奔放に並べたということでネオバロックと評せられることが多いが、その中で鏡は錯視効果を導くものとして積極的な役割を与えられている。観客の集うホワイエや常連の得意客も入ることのできるリハーサル用のバレー・ホワイエなどにサンゴバンの巨大な鏡をあしらい、パリ上流社会の話題をさらったのである。大空間に設けられた大鏡は室内を視覚的に倍の大きさに広げる役目を果たす。着飾った老若男女が自身の姿を映し出し、演出効果を何倍にも増幅する力をもつ。」

『サンゴバン』から引用したこの一文、少し穿った読み方をしてみると、パリ・オペラ座という建築空間がある種の葛藤を抱えた(あるいは分裂した)空間だったというふうに見えてこないでしょうか。オスマンのパリ大改造の代表作であり、近代的な光(啓蒙)の行き届いた「理性的」な空間という側面と、一方、鏡のもつ原初的な錯視効果を最大限に活かしたいわば「魔術的」な空間という側面の葛藤(分裂)です。その視点を持ちこんでみると、小説『オペラ座の怪人』の空間処理と照明効果が、まさにこの葛藤(分裂)をコードとしていることがよくわかります。

まずオペラ座の上階に配置されるのが、「理性」を象徴する支配人室です。

(以下『オペラ座の怪人』より引用)「みんなは辞任する支配人たちが陽気な様子をしていることに気づいた。(劇場で事故があった直後にもかかわらず)こうした態度をとることを、田舎では自然だと思う者はいなかっただろうが、パリでは非常に気持ちのよいやり方だと見なされていた。苦痛の上に喜びの仮面を、内心の喜悦の上に悲しみ、当惑、または無関心の<黒マスク>をつけることを学ばない人間は、決してパリジャンとはなれないだろう。//(支配人の)ドビエンヌ氏とポリニイ氏は彼女に接吻し、お礼を言うと、幽霊そのものと同じくらい素早く姿を消した。そのことに驚く者は一人もいなかった。なぜなら彼らが上の階の声楽関係の共同控室でも同じ儀式を執り行わねばならないこと、そして最後に、本当の夕食会が待っている支配人室の大ホールで、親しい友人たちを迎えることになっているのを、みんなは知っていたからだ。」

彼らオペラ座の支配人たちの従うべき職務規定書の第一文が「オペラ座事務局は王立音楽アカデミーの公演に対して、フランス最高のオペラ舞台にふさわしい光輝を与える義務がある」というのはとりわけ象徴的です。支配人に期待される役割とは、建物の上階において、感情を抑制し、常に舞台に「光」を行き渡らせること、というわけです。そして、「理性」の支配人室の対極には、「魔術」を駆使するオペラ座の幽霊が支配する薄暗い奈落(地下)が配置されます。

(以下『オペラ座の怪人』より引用)「それらは恐るべきもので、全部で五層をなし、舞台の平面全体と、その切穴や迫出口を再現していた。//ウィンチ、シリンダー、分銅などが奈落に気前よく配置されていた。それらは大きなセットを操作したり、場面転換を演出したり、夢幻劇の人物たちが突然消え失せたりするのに使われる。奈落とはそういうところなのだ、とガルニエの業績について非常に興味深い研究を残したX、Y、Zの諸氏は述べている。弱々しい老人を美しい騎士に、醜い魔女を若さで輝く妖精に変身させるのが、奈落なのである。サタンは奈落から現れて、またそこへ沈んでいく。地獄の光はそこから射し込み、悪魔のコーラスはそこに席を占めている。・・・そして幽霊たちはまるでわが家のようにそこを歩きまわっているのだ・・・」

この「闇」の世界に属するオペラ座の幽霊の弱点は、当然、「光」です。そのことは、彼がヒロインのまえにはじめて本当の姿をさらす場面に残酷なまでにあらわれています。

(以下『オペラ座の怪人』より引用)「その卑屈な態度があたしにいくらか勇気を与えてくれた。それにあたりのすべてのものをくっきり映し出す光が、現実感を取り戻させてくれたのね。この冒険がどんなに異常に見えようとも、いまでは見たり触れたりできる現実のものに取り巻かれているのよ。それらの壁の壁掛け、家具、燭台、花瓶、さらには金色の手押し車に乗せられどの店から運ばれたか、値段がいくらだったかをほとんど推察できる花々にいたるまで、//何もかもが否応なくそこを他の数あるサロンと似たり寄ったりのものにしてしまっていたのよ。たぶんあたしが相手にしているのはどこかのひどい変わり者で、どういうわけか地下室に住みついているんだけど、必要に迫られてそうしている人間は他にも大勢いるんだわ。」

『闇をひらく光』で指摘されていたように、室内に入る光を「控えめな適用量」に分けることは当時の市民にとって生活上の大問題だったわけですが、この一文を読むと、オペラ座の幽霊にとってはそれはまさに死活問題だったということがよくわかります。なんといっても、闇のなかではあれだけ恐れられ特別なオーラを放っていたオペラ座の幽霊が、「くっきり映し出す光」のもとでは「地下に住みついた大勢の変わり者のうちの一人」である、ただのエリック(幽霊の本名)に成り下がってしまうのですから。そう考えると、彼が最初に仕掛けた本格的なテロが、劇場にかかる巨大シャンデリアという照明装置の破壊(同時に、幽霊を信じない門番の殺害)だったことは、むしろ当然の選択だったといえるでしょう。

そして、この垂直構造の二極に分裂したふたつの空間をつないでいるのが、ヒロインの控え室にある大鏡です。

(以下『オペラ座の怪人』より引用)「クリスチーヌは相変わらず自分の鏡像のほうへと歩いていき、彼女の鏡像は彼女のほうへと近づいてきた。二人のクリスチーヌ--実物と鏡像--とはついに触れ合い、混じり合った。//彼が見たのはもはや二人ではなく、四人、八人、二十人のクリスチーヌで、それらは彼のまわりをいとも軽やかに旋回し、嘲るかと思うとさっと逃げてしまうので、彼の手はどの一人にも触れることができなかった。最後に、すべてがまた動かなくなり、彼は鏡に映った自分の姿を見た。だがクリスチーヌは消えていた。」

このシーンをはじめ、「燃えよドラゴン」を髣髴とさせるクライマックスにいたるまで、とにかく『オペラ座の怪人』には「鏡」が重要な小道具として多用されています。おそらく「鏡」のもつ両義的な機能(室内に光をもたらす効果と室内を広く見せる錯視効果)が、「理性と魔術の葛藤」という、この小説のテーマと相性がよかったんでしょうね(でも、実はこの作品そのものが、オペラ座の筆頭スポンサーであるサンゴバン社のステマだったんじゃないの、なんて気もしてたりしてw)。いずれにしても、『サンゴバン』と『闇をひらく光』を読んでいたおかげで、『オペラ座の怪人』の空間処理と照明効果が手に取るようにわかりました(っていうか、わかったような気になれましたw)。やっぱり本というのは、読むタイミングというのがありますな。積読、ばんざい。


さあ、すっかり白日のもとにさられたエリックよ、今度こそ永遠の眠りにつくがいい、ぼくの本棚の暗がりで・・・なんつって。