Brooklynites

年始以来パリに長逗留して街を探索していたわけですが、さすがにフランス料理にも飽き飽きしてしまい一時アメリカに避難しております(もちろん、読書空間でのお話ですが)。ヨーロッパからアメリカへの玄関口といえば、やっぱりニューヨークですよね。というわけで、ニューヨークはブルックリンを舞台とした小説を二冊ほど。


コルム・トビーンの『ブルックリン』は、1950年代にアイルランドの片田舎から大都会ニューヨークに渡った少女の視点を通して、ふたつの異なる文化を越境する感覚がすごく丁寧に描かれた小説でした。「移民とニューヨーク」というテーマでいえば、時代設定は異なるものの、昨年読んだジョセフ・オニールの『ネザーランド』にも通じるところがあります。どちらの作品も、地理的なトランスレートと、主人公のライフステージのトランスレートが重ねて描かれているのも共通していました。その「どっちつかず」の不安定な感覚が、『ネザーランド』ではグーグル・アース上の重量感のない浮遊シーンに象徴されているように感じたのですが、『ブルックリン』ではアイルランドとニューヨークを往復する船旅のシーンで、より身体的な重量感をもって描かれていて印象的でした。

もうひとつ、『ブルックリン』で感銘を受けたのが、主人公の少女が日常をとらえるときの「システミック」な感覚の鋭さです。自分の身に起こる些細な出来事が周囲の人間関係(システム)に与える影響を見積もる彼女の視線に、ときに共感しつつ、ときにうんざりしつつ、いつしか物語内に張り巡らされた人間関係にすっかり取り込まれてしまう。彼女の家族、田舎町の共同体、それらを包摂する広い世界が同心円のように広がっており、さまざまなレベルのシステムで起こる出来事が他のシステムに波紋を広げていく様子がとても自然に描かれているんですね。そういう意味では、この作品は「システムズ・アプローチ」的な小説なんていっても過言じゃないかもしれません。

ブルックリン (エクス・リブリス)

ブルックリン (エクス・リブリス)


『ブルックリン』とほぼ同時期に書店に並んだポール・オースターの新刊が、同じくブルックリンを舞台とした『ブルックリン・フォリーズ』。こちらは同じブルックリンが舞台でも、時代はずっとくだって2000年。前作『オラクル・ナイト』を読んだときも感じたのですが、ここ最近のオースター作品は都市における偶発性が物語を転がしていく傾向がますます強くなってる気がします。小説としては反則だろ!w と思わずツッコミを入れたくなる偶然の数々が確信犯的に投入されているんですけど、それが何ともいえず軽妙なトーンになっていて、まるでウッディ・アレンの映画を見ているみたいな一本でしたね。

でも。実はこの作品、決して明るく楽しいだけの小説ではありません。あえてネタバレを恐れずに書きますが、『ブルックリン・フォリーズ』は9.11という歴史の特異点に衝突して終了する作品だといえます(この衝突して終了するというイメージは『偶然の音楽』にも通じますね)。そこまで、どんな人間の人生も「小説より奇なり」ということを描いてきた小説は、最後に空中から墜ちてくる無数の人生=「書物」という深刻なイメージで締め括られます。デリーロ『墜ちてゆく男』、オニール『ネザーランド』が、いずれも9.11の「以後」を描くことでその歴史の特異点を表現していたとすれば、『ブルックリン・フォリーズ』はそれ「以前」を描くことで、その特異点=Xの衝撃を表現している作品だといえると思います。

ブルックリン・フォリーズ

ブルックリン・フォリーズ