怪物の遺伝子

先日の『幸福の遺伝子』の書評において、物語の語り部である「私」と、その「私」が創造した虚構の人物たちとの緊張関係について触れました。リチャード・パワーズは、遺伝子を「書き込まれた情報/読み取られる情報」というレベルにまで抽象化することで、作家が小説を書くこと(つまり、虚構の人物を創造すること)と遺伝子の働きのあいだに、ある種の相同性があることを指摘しました。この自己言及的、再帰的な構造において、『幸福の遺伝子』は遺伝子をテーマとして扱う物語でありながら、同時に遺伝子そのものを模した物語になっていたわけです。

なぜ『幸福の遺伝子』のことをくどくど書くのかといえば(ほんと、しつこくてすみません!w)、今回ご紹介する『HHhH プラハ、1942年』という作品もまた自己言及的、再帰的な構造を持つ作品であり、ぼくのなかで『幸福の遺伝子』とおおいに共鳴する物語だったからです。

『HHhH』というタイトル、これはドイツ語で「ヒムラーの頭脳はハンドリヒと呼ばれる」という文章の頭文字をとったものだそうです。そんな一風変わったタイトルを付けられた本書は、ナチスの大物にして<金髪の野獣>と呼ばれたラインハルト・ハイドリヒと、彼の暗殺を企てた<類人猿作戦>という歴史上の事件を扱った歴史小説「のようなもの」です。

本書の語り手である「僕」は、この事件を忠実に書く(再現する)ことを決意した作家の卵です。そのために膨大な史料を集め、事件に関係する土地を訪ね、着々と準備を進めていくのですが、いざ筆をとった「僕」は、この計画が少しずつ狂い始めていくのを感じます。どんなに真摯に史実を再現しようと試みても、現実を再現するには限界があります。膨大な史料を取捨選択する、選んだ史料をつなぎ合わせる、こういった作業のすべてに想像力を動員せざるをえません。その葛藤を解消しようと、さらに史料を積んでいくのですが、そのことがかえって「僕」のなかの想像力を肥大させていきます。史実が自らの想像力によって少しずつ汚染されていく様を、忸怩たる思いで見つめる「僕」・・・

歴史小説「のようなもの」なんて曖昧な紹介になってしまうのは、「史実(ノンフィクション)」と「虚構(フィクション)」が相互に侵犯するような、本書独特の語り口のためです。


『幸福の遺伝子』にならって作家の企てを遺伝子工学にたとえるとすれば、『HHhH』の試みは、どこか「ジュラシック・パーク」を連想させます。作家である「僕」は膨大な史料を入手し、それらを抑制した想像力で慎重に補うことで、かつて実在したハイドリヒという怪物を現在によみがえらせようとします。しかし(もちろん?)、この怪物はやがて創造者の企図を逃れ、ノンフィクションとフィクションという(本来は隔離されているべき)二つの領域を自由に闊歩する存在になっていくのです。

(以下『HHhH』より引用)「ハイドリヒはこの物語の主役だとは見なされない。僕がこの本を書くことを思いついてから、もう何年にもなるけれど、<類人猿作戦>以外のタイトルを考えたことは一度もない(仮に、読者が今お読みになっている本の表紙に別のタイトルが印刷されているとしたら、このタイトルがどうやらSF的すぎるとか、ロバート・ラドラム的すぎるとか思った編集者に僕が譲歩したことがわかるだろう)。」

もちろん、読者はこの本のタイトルが『類人猿作戦』でないことを知っています。そして、それがおそらく編集者への譲歩でないことも・・・

(以下『HHhH』より引用)「ところで、ハイドリヒはこの作戦のターゲットであって、首謀者ではない。彼について僕が語っていることは、言ってみれば所詮その背景を固めるにすぎない。でも、文学的観点からは、ハイドリヒがなかなか興味深い人物であることは認めざるをえない。それはあたかも、フランケンシュタイン博士の生みの親である作家が、文学に描かれた有名な怪物たちから、いかにも恐ろしげな生物を考え出したようなものかもしれない。ただし、ハイドリヒは紙上の怪物ではない。」

「主役を食う」とは、よく言ったものですよね。読者は、この物語本来の主役であった<類人猿作戦>の首謀者たちが、背景から立ち現れたハイドリヒという怪物に貪り食われていく様子を目撃することになるでしょう。そこに居合わせてしまった読者にできることといえば、せいぜい次に自分が食べられないことを祈るくらいです。

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)